今 思い返しても インドは私の人生での最悪&最低の旅行経験でした。むろん娘にとっても…。            1年後 娘は勝手にイギリスの大学への編入試験に応募&合格して、無事イギリスの大学を卒業しました。        イギリスで出会った多くの留学生たちは イギリス独特の陰鬱な天候やまずい食事にうんざりして ホームシックになっていましたが インドで1年過ごした娘にとってはイギリスのなにもかもが素晴らしく思え イギリス留学生活を大いにエンジョイできたそうです。                                             一方私は 日本の素晴らしさを再確認。 以後日本国内だけを お一人様旅行して廻るようになりました。蛇口をひねれば飲料水。乗り物の正確な運行時間。フレッシュなサラダと料理。どこにでもある自動販売機。そして女一人でも安心安全に移動できる国内環境。ごまかされないお釣りと製品類。これらを当たり前のように暮らしていましたが、これらは日本ならでは…だったんですよ。ビバ!日本!


 

 

 

2006年6月24日より その(1)

これは今から8年前の話です。

日本のごく普通のおばさんが、ある日突然インドに3ヶ月も滞在する羽目になった時のびっくり仰天記です。

現時点のインドがどう変化しているのかわかりませんし、これはあくまで私個人の印象記でもありますので、

そこのところ、ひとつ、よろしく…。


娘が高校を卒業してすぐ、インドのデリー大学に入学する事になり、

入学手続きや下宿探しの為、主人に代わって私がインドへ同行する事になりました。

 

ぐーたら猫の母親とぐーたら猫娘の二人はそろって能天気です。

特に不安も感じないまま、デリー行きのJALに乗り込みました。

機内はがらがら。二人はそれぞれ1人で3席分を占領し、ほとんどうつらうつら状態で10時間の旅を過ごしました。

機内アナウンスでインド上空だと告げられて、ほう、どれどれ。

窓から下を覗き込むと…赤い!地面が赤いのです。

日本の黒土風景を見慣れた目にはかなり異様な光景が眼下に広がっていました。

しかもその色を見ていると、漠然と不吉な予感を煽り立てる何かがある…

 

デリー空港は薄暗い上、人影もまばら。

さっきまでいた、蛍光灯ですみずみまで照らされ輝きわたっていた成田空港とは大違い。

ますます不安は募りますが、とりあえず、飛行機を降りた集団のしんがりについていき、手続きをします。

迎えの人はすぐ見つかりました。

日本語ぺらぺらのインド人のH氏が「歓迎、○○さん&○子さん」と描いてあるボードを高く掲げていたからです。

「疲れましたかぁ?」

「いいえ、あっという間で着きました。」

なんて、日本語でご挨拶をかわしていた時、ふっと異様な気配を感じました。

ふと横を向いて、びっくり仰天!

なんだ、私はヨン様か?!

ロビー中のインド人がみな、瞬きを忘れたような熱心なまなざしで、私達をみつめているのです。

 

「なに?」と睨み返すと、日本人ならあわてて目をそらすのですが、インド人は違う。

「それで?それで?」というように目を輝かせてさらに、熱心に注目してくる…??

では、タクシー乗り場へーと歩き出すと、連中の目は、我々の動きに合わせて追ってくる??

なんなんだっ!一挙手一投足、ずぅーっと凝視されているこの不気味さ。

芸能人や有名人ならそういう視線は、かえって心地よいんでしょうけどね。

こちらは、ただの一般人。

気持ち悪いったら、ありゃしない!

 

後でわかった事ですが、彼等は出迎えの人々ではないのです。

仕事もなくお金もなく、ひたすら暇をもてあまして、空港にたむろしている人々でした。

彼等にとって、空港は無料の舞台だったのです。

だからそこに登場する外国人達は舞台の登場人物?

ほれ、しゃべれ、ほれ、動け…その後インドの街中でも、こういう人々が多く存在し、何をするにも、彼等に見つめられ、観察され…十日もすると、人に見られる事に慣れてしまった、ぐーたら猫母娘でした。

貴女もインドに行けばソク、その日からスター気分満喫できますよぉぉぉ~?

 

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年7月1日より その(2)

たくさんのファン(?)の熱烈なまなざしに見送られながら、そそくさとタクシーに乗り込みます。

ふーやれやれ。

ほっとしたのもつかの間。

おいおいっ!お風呂場状態の熱気だというのに、このタクシーにはエアコン無いのかい?

(後でわかった事ですが、エアコン付きのタクシー自体、余りないそうです。)

仕方ないねと窓に身を近づけてギョッ!

窓ガラスがない?!しかもドアハンドルもない?!

よく見たら、天井はぼろぼろ。

ドアときたら、ゆがんでかろうじてはめ込んであるだけ。

「これって日本で走ったら犯罪だよね」娘がぼそっと言いました。

ひえ~。ホテルまで無事着けるんだろうか?

 

不吉な赤い土が両側に露出した車道を走っていくのですが、グリーンベルトに牛が立っています。

それも一頭や二頭じゃない。

走っている車道の真ん中にいたりもする。

あちこちで自然渋滞がおきています。

これらはほとんど「のら牛」です。

 

インドでは牛は聖牛として大事にされているので、のら牛はのんびりしています。

彼等は車道で涼んでいるのです。

熱い夏を快適に過ごすために、彼等は考えたのです。

行き過ぎる車の起こす風を扇風機かわりに利用してやろうというわけ。

 

ちなみにインドでは犬を飼うのはステータス。

猫は不吉な生き物とされ、ペットにする習慣はありません。

またインドのカラスは極端に痩せています。

ゴミ捨て場を乞食が漁り、のら牛が漁り、のら猫が漁るので、カラスが拾い食いできる余地がないのです。

のら牛を上手にかわして、ほうほうの体でホテルに到着。

「夕飯には迎えにきますね。」とH氏が立ち去ったとたん、娘と私の口からでた言葉は「あ~、今すぐ、日本にかえりた~い!」でした。

 

 


 

 

 

 

 

2006年7月7日より  その(3)

明日から大学の入学手続きだの下宿探しだのが始るのでとりあえず、両替して置こうかーという事でフロントに降りて行きました。ルームキーを見せればいいと聞いていたので、セカンドバッグから40万出して、ルームキーとともに、ぽん・とカウンターに置きました。とたん、頭にターバン、金ボタンに詰襟の白い服、ピンと跳ね上がったヒゲという、まさに絵にあるようなインド人のオジサンは硬直。唇をへの字にして、瞬きのないギョロ目で、我々母娘を無言でじっと見ます。5分ほど声なし・・・「あらら?なんか間違った?パスポートも提示するのかしら?」「聞いてないよ。でもコピーなら部屋にあるよ。取ってこようか?」もぞもぞと話していると、彼はやおら傍らの電話を取り上げ、凄い勢いで誰かと話し始めました。ガチャンと電話を切ると、また我々を睨み付ける様にして無言?「なんなのよ~。贋金だとでも思ってるわけ?」そんなところへ、もみ手をしながらにこやかに支配人が登場。ちょっとお待ちください。金庫から出して参りますから・・・って、何の話??暫くすると、支配人がワゴンをがらがら引いて、その上に札束を山盛りにして帰って来ました。(何なんだっ!これは!これじゃぁセカンドバッグに入らないじゃないか!こんな札束の山、どうしろと?!)
後でわかった事ですが、フロントで両替するのはせいぜい2~3万程度が普通。なぜならその頃のインドには高額紙幣がなかったから。フロントのインド人は余りに多額の両替に動転していたんですね。しかも驚いた事に、札束をまとめるのに、帯封でなく、何とお金を、ホッチキスで止めているんですよ~!!その後、このホッチキスで止めてある札束スタイルは、あちこちで見かけました。インドではごく普通の紙幣スタイルなんだそうです。ちなみにその頃のインドでは1ルピーが3円だったかな?50ルピー(日本円だと150円)でバナナを買おうとしたら、お釣がないと断られました。高校の先生の給料が日本円で8000円と聞いて、たまげたけど。日本のおばさんの感覚だと8000円って、映画観て、ちょっと気張ってこじゃれたホテルでランチする金額ですよね。世界は広いな~と改めてびっくり。

 

 


 

 

 

2006年7月14日より   その(4)

次の日はショッピングでも行こうかという事になりました。

ホテルの玄関で手をあげると、タクシーの溜り場から一台がやってきます。

ガイドブック片手に、デリーで唯一(?!)エレベーターのあるという有名店に行く事にしたので、

運転手に店の名を告げていると、いきなり、見知らぬ男が助手席に滑り込んできました。(えっ?なに、この人?)

彼は顔が壊れんばかりの笑顔で、たたみ込むようにしゃべりかけてきます。

「デリーへようこそ。もう街は見物されましたか?象には乗りましたか?素晴らしい街でしょう?

見るところはたくさんありますよ。あぁ、お嬢さんですか?美人ですねぇ・・・etc」

 

あっけに取られていると、彼は早口のおしゃべりの合間にちょこっと運転手にヒンズー語で何か一言、告げました。(妖しい!)すると運転手は、いやはや…といった感じで頭を振る?

ぐーたら娘は目で会話してくる。

(なに、この、おっさん、いやに馴れ馴れしい。チョーむかつく)

ぐーたら母は目で答える。(みるからに妖しいオヤジ!注意せよ)

「今日のご予定は?見物ですか?買い物ですか?私はねぇ~特別なコネがあって、

すてきなお土産を特別安く買える店を知っているんですよ。ご紹介しますから、ちょっとお寄りになりませんか?

なに、10分もかかりませんよ。店はこのすぐ近くですからねぇ。」

そしてタクシーはおどろおどろしい店の前に止まった!


私は断固として言う。「私は○○へ行きたいの!」

即座に「あぁ、○○ね。あそこもなかなかいい店ですが、残念ですねぇ。今日は定休日ですよ。」

オヤジは顔一杯の笑顔で答える?!

「・・あらそう、それは残念。では運転手さん、ホテルへ戻ってちょうだい。」

タクシーがホテルへ戻ると、娘はすばやく私へ目配せしてタクシーを降ります。

一方私はもたもたサイフを取り出し、もたもたタクシー代を勘定し始める・・・。

妖しいおっさんは首をすくめ、助手席から降りるとしょぼしょぼ立ち去りました。


そのとたん娘は助手席に滑り込み、私も今までの鈍重さと打って変わった俊敏さで

「早く出して!」大声でシートをたたく。

かくしてタクシーは轟音を上げて再出発。

その後無事、店へ付き(もちろん定休日なんて大嘘よ)ゆっくりショッピングし、

待たせておいたタクシーでホテルへ戻りました。

タクシーをおりると玄関脇に、例の客引きのオッサンが所在なげにつったっている。

目があったので私はニヤリと笑い、○○のネーミングの入った買い物袋を高々と掲げて、

ピースサインを送りました。

日本のオバタリアンをなめんなよ!…という一幕でした。

皆様もインドでは、ホテル玄関先でうろちょろする客引きには、くれぐれもご用心なさいませよ。

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年7月23日より  その(5)

デリーから列車で行ける、タージ・マハルを見学に行く事にしました。

窓口で、エアコン付き一等車の切符を購入。そのままプラットフォームへと向かいます。

改札口というものがない…だから駅には人が溢れています。

ホームを道路替わりに通り抜ける人々と、例のごとく、行き場のない暇つぶしの人々が駅構内に溢れ、

まるでスクランブル交差点状態。

 

足元がいやにベタベタするなぁと思ったら、売店で売られている飲み物の残りがあちこちにぶちまけられていました。

ちなみにインドで売られている飲み物は全体が甘すぎます。

それらを香辛料の効いたインド料理を食べる時必ずがぶ飲みするのがインドの食卓風景です。

見ているだけで気持ち悪くなるのですが、彼等にしたら、

「水」を飲みながら食事する日本人の方が舌がおかしい…と思っているのかもしれません。

その滅多やたらに大甘のジュースの飲み残しが大量にぶちまけられているのですから

ホームのあちこちには、うわ~んと真っ黒なハエ柱がたっています。

蚊柱というのは聞いた事がありますが、ハエ柱というのは聞いた事がない。

凄い光景でした。気持ち悪いを通り越して、あ然とするばかり…。


出発ホームで列車を待っていると、さすが一等車のあたりには人が少ない。

でもそこを狙って、貧しげな少年が犬を連れてやってきました。

もちろん、ヒモなど付けていない放し飼い状態。

一等車の女客を狙って、犬をけしかけで小遣いを稼ごうというわけ。

大甘ジュースのせいで相撲太り体型の中年女性が多いインドです。

しっしっと手を振って撃退する貫禄アリ。

「きゃぁ~!」と叫ぶのは子供の頃、犬に噛まれて犬嫌いになったわが娘のみ。

やせ細って犬というより、薄汚れた狐に見える犬は、調子づいて低い唸り声を上げて娘に迫ってくる。

そんな光景を見て、少年はニヤニヤするばかり。

困った!という時、大きなリュックを背負ったインド旅行中らしい青い目の青年がやってきて大喝!

犬も少年も即座に退散しました。

よかった。そばかす一杯のアメリカ青年がスーパーマンにみえましたよ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年7月29日より その(6)

さてさて、無事列車に乗り込みました。

最高級の車両なので(特等はない)ロマンスカーぐらいの装備を想像していたら、がっかり。

とりあえず指定席なので座れましたが、席ときたら、まっすぐの木の背板のうえ、肘掛も木でした。

日本の昭和30年頃の列車といった感じ…。

お弁当付きと聞いていたのでわくわくして待っていたら、

サンドイッチと例のごとく、大甘のパックジュースが配られました。

このサンドイッチ…耳無しパンにオムレツ卵がはさんであるだけ。

マヨネーズとかバターとかが一切塗っていない…もちろん野菜ナシ。

旨い、マズイのコメントできるしろものではないが、とりあえず、もぐもぐ。

 

その時ふと、外を見て私は叫んだ。
「ねぇ、見て、見て!この窓、意外としゃれているじゃない。きれいな模様が入っているよ。」

列車のガラス窓に、細かい模様が一面に入っています。

娘も感心する。

「外の景色がつまんないからねぇ。インド国鉄も気をきかしているんでしょぉ。」

列車の外には私の大嫌いな赤い大地風景が延々と続く。

時々まばらに貧相な木が生えているだけ(見ているだけで気が滅入る)。

 

2時間ぐらいの旅でしたが、そろそろ到着という時間なので娘が「ちょっとトイレへ…。」

すぐ、戻ってきました。

「どうしたの?使用中?」

「・・・・ママ・・・私、あんな恐ろしいモノ、初めて見たぁぁぁ!!」

娘は見たのです。

トイレのドアを開けたとたん見たものは…てんこ盛りで便器から溢れたう○○の山!!

 

「ここは一等車でしょ?信じられない!!まさに地獄じゃぁぁぁ・・~!」

そして娘はその日一日中トイレへ行きませんでした。

それまで幸か不幸か、暑い国で汗がたくさんでるので、外でトイレ…という経験をしていなったのです。

おぞましい光景を見て打ちのめされた娘は、列車を降りるとき、さらに追い討ちをかけられました。

「ママ!このガラスは模様じゃないよ。ひびなんだよ。だってあそこに一枚だけ、普通のガラス窓があるもの?!」

ひびの入ったガラス窓で走り、う○○が溢れたトイレ…これがインドの一等車両風景なのです。

 

後日談…以降、娘は、ひどいトラウマをかかえる事となり、トイレは自分の部屋にある水洗洋式トイレしか使用できないようになりました。

デリー大学に通っている間も、朝トイレに行ったきり、帰宅するまでトイレに行かないようになり、

その結果、正月休みに日本に帰ってきた時は腎臓を悪くして、治療を余儀なくされました。

我慢しすぎて、膀胱内で尿が濃くなりすぎたせいだそうです。あぁ、インド、恐ろし・・・・。

 

 

 

 

 


 

 

 

2006年8月5日より  その(7)

日本を出発する時、主人から

「デリーにいる日本人には、出来る限りに会うようにして、知り合いを増やしておきなさい。」とアドバイスされていました。

 

つてを頼ってお会いしたのは男性の駐在員がほとんどでしたが、

その中に1人だけ、官庁関係の、うら若き女性がいました。

あちらも久しぶりの日本女性に会えたそうで、大喜び。

だから初対面の挨拶の後は、話終わらないうちに次の人の話が始まり、二人同時にしゃべるというスタイル…日本語のマシンガントークが全開。

ホテルロビーに響き渡るそのかしましさには、インド人もびっくり?

 

暫くして、彼女曰く「ストレス発散!あ~、せいせいしたぁ!」

同じ英語でもインド英語はなまっているそうで、聞き取るだけで、毎日非常に疲れるのだとか。

そんな中、思いっきり日本語できて、すっきりできたそう。

日本では主人や息子にうるさがられている我々のおしゃべり。

お役にたててよかったで~す??

 

それはともかく。彼女のハナシ…インドへ転勤となった彼女は、現地では日本食が手に入りにくいと聞いたので、

あれやこれやと詰め込んで、かなり大きな荷物を作りました。

この段ボール箱・・重いしかさばるしーで、日数はかかるけど値段の安いという船便で送る事にしました。

ところがインドに赴任後、待てど暮らせど…荷物が届かない?

結局行方不明。

 

しばらくしてある日、外国製の文房具が必要になり、デリーにある商店街へと買い物に出かけました。

商店街の一角で、インドにあるはずもない(日本でも珍しい彼女の地元産の)醤油やら乾物やらを発見?!

つまり彼女の荷物は、抜きとられて売られていたんですよ。

荷物&手紙に日本国名&日本人名があると、

価値があるものが入っているーというので、抜き取られる可能性が高いのだ…とか。

それを聞いた我々は以後、大切なものは高いけどFedex(アメリカのクロネコ)に頼み、

普通のものは、インド人名で発送し、受け取りも○○方(下宿先)のインド人名にして安全を図りました。

だから娘に送った荷物や手紙は全て、ちゃんと着きましたよ。

これはあくまでも8年前のハナシですけどね。
また、主人のアドバイスで、お土産に三色ボールペンを大量に用意しました。

ボッチを押すと赤、青、黒に切り替わるアレです。

こんなもの?と思いましたが、ちょっとしたご挨拶がわりに大学の友人、チップとして、下宿先のインド人家庭、などなど・・行く先々で配ったんですが、これが例外なく喜ばれました。あの技術は大したもの…らしいです??

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年8月17日より   その(8)

H氏の案内で象がたくさん出ているというカーニバルの見物にいきました。

間近で象を見られ、その上さわれるなんて、インドならでは…ですからね。

行ってみて驚いたのは、象より、その周辺にたむろしている乞食の数の多さでした。

 

昭和22年生まれの私と53年生まれの娘は、今まで乞食を見たことがありません。

道端でいきなり手を出されて、一瞬、ぽかん??

ヒンズー語は理解できないけど、表情や目から訴えかけるものは理解できる。

「なんか、困っているらしいよぉ?いくら出せばいいの?」

「ママだってわからないわよぉ~。500円くらいじゃ、失礼かしら?」

「でもさぁ、あっちにもこっちにもたくさん、似たような人がいるけど、この人に渡すだけでいいのかしら・・ん。」

 

前を歩いていたH氏が振り返って一言。

「乞食に構うと大変な目にあいますよ。無視してください。」

言われている側から、好人物そうな欧米人がうっかり小銭を恵んだばかりに、

我も我もと手を突き出す乞食軍団に囲まれて、もみくちゃにされている光景を見ました。なーるほど!

 

やがて歩いているうちに、凄い乞食をみつけました。

両足が不自由らしく地面にはいつくばっているのですが、

両手を使って、歩くより早いスピードで、地面をすべるように移動。

不謹慎ですが、かくし芸大会の演目かと思うほど流麗な動きを見せて移動しています。

 

オノボリサン丸出しで、呆然と見ている我々に気づいた彼は、こちらが逃げ出す前に、我々の前にささっ立ちふさがるようにして、手のひらを差し出しました。

差し出された掌を見た時は、ちょっと感動。

掌がまるで足の裏のように堅く厚く、変色していました。

彼の目は哀れな物乞いの目ではなく、生きようとするエネルギーに満ち溢れ、卑屈な色は微塵もない。

H氏の警告を無視して、(いくらの札だかわからないまま)サイフから1枚引き抜いて、彼の手へ。

その後は後難を恐れて、娘の手を引いて、猛ダッシュでその場から逃走。

「今の人、見た?困難にあってもそれを克服して生きようとする人間の力って凄いねぇ。ママ、感動するよ~。」

すると娘答えて曰く。

「この国の福祉ってどうなってるのぉ?」

おい、能天気娘!人のハナシ聞け!って・・。

 

ちょっと小腹がすいたので屋台でバナナを買いました。

ホテルやレストラン以外では買い食いするなといわれているけど、

バナナなら食中毒の心配は無かろうと考えて…一番小さい紙幣を出したら、

お釣がないと巨大な一房を渡されました?!(欲しかったのは2本なのにさ~)


「これ、どうするの?ホテルまでもって帰るの?重いよ~ヤダよぉ」

娘がブーたれます。

そんな時、道端に5歳くらいの女の子がボロをまとい背中には赤ちゃんを背負い、

さらに幼い弟の手をひいて、物乞いしている姿を見つけました。

「あの子を見てご覧。あんな小さいのに、可愛そうに。」

するとうちの能天気娘、素っ頓狂な声で「ラッキー!」

 

何をするのかとおもいきや、ぱたぱた、女の子に駆け寄り、ほいさーとバナナを渡して帰ってきて、一言。

「いあや、めでたし、めでたし。重いのを持ち歩かないで済むし、バナナも役にたったし…。」

説教しようとした私ですが、かの女の子がバナナを抱え込んでしゃがみこみ、

凄い勢いでむしゃぶりつく姿を見て、絶句…。

インド中に溢れる乞食に関しては、どう考えていいのか、いまだにわかりません。

日本に生まれた事をひたすら感謝するばかりです。

 

 

 

 


 

 

 

2006年8月18日より   その(9)

入学手続きも無事終わったので、いよいよ、下宿探しを始めました。

当初は学生寮に入ろうと思ったのですが、まずエアコンがない!

さらに暗くて狭くて、とにかく汚い!

壁も床もぼろぼろで、パスするしかないねぇ…。

インド人の不動産屋を紹介してもらい、①清潔②賄い付き③一ヶ月5万円前後という条件で、物件を探し始めました。

 

なんと申しましょうか・・・・見る部屋全て、6畳ぐらいの部屋にコタツみたいな四角い台式のベッドがで~んとおいてあるだけ!

部屋にはトイレもシャワーも冷蔵庫もない。

テーブルもありません。

しかも床にはアリが這い回っているぞぉ??

条件を一ヶ月10万にあげたのですが、部屋が広くなったというだけ…。

物価の安いインドですが、デリーの住宅状況だけは東京並みに高いそうです。

紹介するそばから「No」ばかり言われて、いい加減腐ってしまった不動産屋が、

「これはちょっと高いのですが・・・」と案内してくれたのは、とある社長宅。


その家は周囲を高い塀が囲んでいて、入り口には門番が控えている住宅街にありました。

住宅街に不審者の侵入がないよう門番が常駐して、チェックしているのです。

案内された家はその住宅街の奥にあり、そう大きい建物ではないけれど、3階建てでした。

但しさすがインドでしたわ。

エントランスも内部の廊下も全て大理石なんです。

家に入ると靴を脱がされ、素足で3階まで、ぺたぺた歩かされました。

でも暑い季節だから、めちゃ、気持ちいい。

なーるほど。床冷房というわけ?


ここの3階が来客用の部屋で、そこを貸してくれるのです。

3階の踊り場は6畳ぐらいあり、そこに専用のソファが壁に沿って丸くおかれていました。

豪華な細工が施された紫檀のテーブルもあって、

ここは来客を接待するスペースだから、お友達が来たとき使ってもいいというけど、エアコンないし、利用価値無いね…

 

さてさて、案内された問題の部屋は、天井が日本のものより二倍は高いという他は、

ビジネスホテルの8畳シングル部屋といったシンプルな感じでした。

でもシャワーと洋式水洗トイレ、デスクもあります。

ビジネスホテルタイプの小さな小さな冷蔵庫もありました。

日本によくある学生下宿と大して変わりないのが気に入りました(でもインドでは珍しい事なんですぞぉ~)。

 

「これ、なに?」

娘が示したのは、窓際に置かれたみかん箱2個分はあるかという巨大な床置き式エアコン。

壁掛け式のエアコンしか知らない娘ですが、私は覚えていた。

昭和40年ごろ実家で使っていたエアコンと同じタイプです。

電気代食いそう。

それに音も大きそうね。

さてさて、値段は5万ルピーでした。

高校の先生の給料が8000円のインドでは、5万ルピーは重役クラスの給料です。

一ヶ月5万円を提示していた主人がきいたら何というのやら

もここに決めました。

 

 

 

 


 

 

 

2006年8月25日より     その(10)

気に入った下宿の家賃は、一ヶ月5万ルピー(約15万)でした。

というか、他に選びようがないでしょ?

これを読んでいるアナタ。

高校卒業したばかりのアナタの18歳の娘を、アリが這いずり回り、冷蔵庫も無くエアコンもない40度の部屋に、4年間も1人でおいておけますか?


そもそもインド留学は主人の発案でした。

国際営業部で仕事している主人は

「これからの国際貿易はインドと中国だ。英語圏への留学なんぞみんなしている事だから、高い金かけて留学してもメリットがない。留学するなら成長が期待できるインドか中国へ行くべきだ。」

と、二人の子供達が高校を卒業する時、それぞれへ熱弁をふるいました。

 

でも、AB型慎重派の兄は「俺はインドや中国なんて真っ平ごめん!」と断固拒否。

その反対に、B型アバウト妹は

「へ~そうなんだ。そんなにパパが勧めるんなら、行ってみようかなぁ?」

と、素直にインド留学へトライしてくれたのです。

(なんて親孝行な娘。パパ涙せよ。)…というわけで、インドへ来ました。

5万ルピーの家賃くらい払ってあげなさいよ…そうは思いませんかぁ?


ところで、不動産屋と大家さん夫婦が見守る中、我々母娘はカシオの電卓を取り出し、マシンガントーク展開中。

「大学がある間はお昼のお弁当を持たせてくれるというから、三食付きで月15万の計算になるねぇ。」
「パパは一ヶ月5万にしろといってたけど、アリと同居なんて絶対いや!私キャンプしに来たわけじゃないでしょ!」
「この設備で、三食付で妥当かな?小さいけどてテラスも付いてるし3階で見晴らしいいし…」
「小さいけど冷蔵庫があるから、いつでも冷たい水が飲めるよ。アリの心配しないで部屋におやつも置いとけるしィ~」
「一番は安全な事かな。門番は常駐しているし、みてごらん、この家の窓ガラス全部に警報が付いているよ。

夜遊びしなけりゃ、デリー名物の置き引き・ひったくりの心配しないですむわね」
「家の近くに大通りあるから、タクシーでもリキシャーでもすぐ乗れるわ。」
「家賃15万でもデリーじゃ生活費はかからないからプラス3万で、月18万の送金で足りるね。日本の大学でも北海道や九州に行けばこんなもんかもね~。やれやれ、当分へそくりできんわ~。ママは日本で、納豆とめざしで頑張るしかないね~。」
電卓片手で早口会話している我々を見た大家さん夫婦は我々が「家賃が高い」と渋っていると思ったらしい。

4万5000ルピーではどうかと値下げしてきました。

…あら、まぁ、それは、どうも…5万ルピーでも借りる気だったのにねぇ…。

そして引っ越してからが、再び、びっくり仰天。

4万5000ルピーの家賃には驚くべき付録が付いていのですよ~!

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年9月2日より  その(11)

ようやく下宿先も決まったので、大家さん夫婦に

「インドにはインドのやり方があると思う。娘は何も知らないので、今後とも宜しくご指導のほどを…」

と、お願いしてホテルから送り出しました。

さっそく娘は下宿先へと移動。

すると大家さん夫婦が、家の中を案内して決まり事など色々説明した挙句

、「アナタのServant」と、1人の少女を連れてきました。娘は思ったそうです。

(Servant=召使??ははぁ、ホテルの客室係りみたいなもんね。了解)


この少女は、1日おきにバスタオルやシーツを取り替えてくれます。

その他トイレットペーパーやシャンプー、石鹸類の補充をしてくれたり、電話ですよ~とか、ごはんですよ~と三階まで呼びにきたり、洗濯物を取りにきます。

これってまさしくホテルの客室係りですよね。ところがこれがびっくり仰天…大間違いのコンコンチキ!


引越ししてから数日後、娘は大家さん夫婦からイエローカードをくらいました。

娘はホテルからスーツケース2個だけもって引越ししたのですが、

部屋に通されるやいなや、すぐさま荷解きしました。(当然よね)

 

その上、部屋を使い勝手のいいように片付けました。(これも普通ですよね)

翌朝は、目覚まし時計で起床。

その後ベッドメーキング。

使った洗面所やデスク上を片付け大学へと登校。

帰宅後は、でがけに持たされたお弁当箱を台所へ返しました。

(これも家でやっていた通り)シャワーを浴びて、洗濯物を100円ショップで買ったネットに小分けしていれて、洗濯室へと持っていきました。

 

夕食は家族と一緒にとりますが、家族はテーブルにあるピッチャーに入った大甘ジュースをがぶ飲みするので、娘だけは冷水にしてもらっていました。

コップに水が無くなったので、当然のように、コップを持って台所にいってコックに

「水、ちょうだい。」

これら全てが、イエローカード対象事項なのです?!


大家さん曰く。

インドでは、良家の子女としての条件の一つに「家事が何もできない事」があるのだそうです。

育ちの良い娘というものは、たくさんの召使にかしずかれて育つものだから、カーテン一つ自分で開けないで育つもの。それを貴女はなんでもかんでも自分でやってしまう…これは、いかがなものか。

さらに大家さん曰く。

「金持ちの社会的責任の一つに、できるだけ多くの人を雇うーというのがある。

我々はできるだけ多くの人に働き口を提供しなければならない。

貴女のように何でも自分でやってしまったのでは、貴女専属に雇ったServantは仕事がないので彼女をクビにせざるをえないではないか。」

・・・いやはや、45000ルピーという(インドにしては)バカ高いお家賃には、専属の召使料も含まれていたんですね。

しかもこのServantなるもの、日本語のニュアンスの範囲外の単語だったのです。

客室係でも、サービス係でもない。

まさしくServant=召使なのですよ。

お殿様と家臣といった意味あい?

表面上は身分は平等のインドですが、微妙にカースト制という身分制度が残っているインドです。

「総理大臣もホームレスも職業が違うだけで、人間としてはみな平等」という国で育った我々には、理解できない言葉ですが

…ともかく18歳の能天気な日本人娘は、召使にかしずかれて、生活する事とあいなりました。

「Servantがいるなんて、なんか優雅そう~」と思いがちですが、実のところ、

「うっとうしい&面倒くさい」そのものなんだそうです。それについては次回…。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年9月9日より     その(12)

というわけで、娘は初めてのservant生活を始めました。

それって、どういう事かというと…朝は召使に起こされるまでベッドでぐずぐずし、シーツや布団をぐちゃぐちゃにしたまま起床。

洗面所は抜け毛だらけ、濡れ放題。

机の上は学用品を乱雑に積み重ねたまま。

使用した洋服も靴も脱ぎっぱなし!

門番に見送られてタクシーで登校。

帰宅後は、きれいに片付けてある部屋でシャワーを浴びると、アイロンかけられた服をえらんで着用。

お弁当箱や洗濯物も、Servantが、部屋にとりにくるまでテーブル上に放置。

夕食は、ダイニングでServantに給仕されつつ食事。

食べ散らかして退場…。

 

これって、私が日本で18年かけてしつけたもの、全否定せよーって事ですよ!許せないっ!

ぷりぷり、かんかんの母親とは別に、娘のほうは「うわ~夢みたい!」なんて最初は大喜びしていたのですが

…人生そんな甘くない!

 

だってこのServantなるもの、日本のサービス業の水準で考えてはいけないシロモノでしたから。

とにかく…気が利かない。

言われないと何もやらない。

手を抜くことばかり考えている。

スローモーである。

2~3日もすると、こんな事なら、自分でやったほうがよっぽど「迅速かつ便利」な生活を遅れるのに…と娘が泣きを入れ始めました。


余りにブータレるので、娘の部屋に体験宿泊してみました。

この家には夫婦用に1人、おばあさん用に1人、二人の小学生用に1人のServantがいますが、

その他にコックが1人とお掃除専用のServantがいます。

娘が登校したあと、お昼近くなって、お掃除おばさんがやってきました。

三階建ての家の床全てが大理石な上、土足生活なので、一日中かけて、床を専門にモップかけする人です。

小柄でしわくちゃ。

市松模様の歯抜けのおばさんは、入ってくるなり、にたぁ~と笑って、モップかけを始めました。

でも、おおきなバケツの水はすでに真っ黒。

(こんな水を使ったんでは、余計汚くなるだけでしょうが?なぜ水を変えない?)

床のモップかけが終わると、バケツから真っ黒の雑巾を出して絞り、

机の上、洗面所、トイレ便器と拭き掃除し始めた!!

(ぎゃぁぁぁ!味噌も糞も一緒かい!)

 

掃除が終わると、やっとServantの少女登場。

もう、お昼近くです。

のろのろベッドメーキングを始めました。

お掃除おばさんもそうだけど、何をするにも、スローモー。

(40度にもなる国だから、のろのろ動くのは、それなりに理にかなった動きなんでしょうけど。)

でも、トイレットペーパーがなくなりかけているのを見てもそのまま。

(控えに一つ置いていけ)と思うのは日本方式。

ここでは、無くなったらServantを呼んで持ってこさせる。

トイレの途中で紙が無くなったら、便器にしゃがんだまま、大声で呼ぶのでしょうか?(あな、恐ろし…。)

 

つまりインドでは一時が万事、命令されて初めて行動するのがServantなのですよ。

気を利かすとか、手順を考えるとか、省エネとか、効率化とか、考えないのですね。

食事のときもそう。

テーブルの側にでくの坊みたいにつったっているだけ。
例えば私のコップの水がなくなっているんだからお水持って来ましょうかと、聞いたらどうかと思うんだけど、

聞かないんだよね。

言われるまで…待機がスタイルなんです。

なんて、まどろっこしい…見ていてヒステリーがおきそうなServant生活。

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年9月28日より    その(13)

とりあえず、どうしても我慢できないのは、掃除おばさんリナのお仕事ぶり。

(洗面所とトイレを同じ雑巾で拭かれてはねぇ)

「拭き掃除は床だけで結構」と厳命してから1週間…不自由なServant生活に一筋の光明が見え始めました。

 

ある日、娘担当のServantのマリが、おずおずと聞いてきたそうです。

「日本でServantの仕事がしたいのだが…」と。

マリは娘の身の回りの世話をする傍ら、部屋にあった日本の雑誌を盗み見たらしい。

(CanCanだかananだか、そんなたぐいの雑誌ね)

 

そこで初めて日本という国を知り、改めて興味をひかれたらしい。

高層ビル、整備された町並み、華麗なファッション、グルメ…。

それを聞いた時、娘はひらめいた!この日からマリ大改造計画を始めたそうです。


ハナシは飛びますが…主人と懇意にしているJALインド事務所の方のインド人転手が体の不調を訴えました。

しばらくの間、自分で運転しようかなぁと思う間もなく、

家には次から次へと運転手志望の人がやってきて、門前市を成す盛況。

対応に大わらわとなり、結果、落ち着いて仕事もできないと、ぼやくことしきり。

こういったニュースはインド社会では、あっという間に伝わるんですって。

そのくらい、みんな仕事探しに鵜の目鷹の目なんですね。

インドでは就職先を見つけるのが大変。

大学を出て、タクシー運転手なんて話はざら。

だから多くの大学卒業生が、ツテを求めて、海外へ海外へと働きに出たがるそうです。


そんな国だからこそ、マリも、日本で仕事ができたらなぁと思ったんでしょうけどね。

(うちの娘より、能天気ですね)
娘は、毎日学校から帰ると、部屋にお茶を持ってくるようにとマリに命じました。

(あぁ、こそばゆい表現!)

そこで大家夫婦にマリが怠けていると思われない程度の時間をかけて、毎日、彼女の教育をし始めました。

それは「貴女はこの仕事が好きか?」という質問から初まり、

「今の仕事は気楽だろうが、それは誰にでもできる仕事であって、雇い主の気分が変わったら、すぐ首がすげかえられてしまう、危うい仕事でもある。」という説明へと続いたそうです。


毎日15分程度、日本の話をしてきかせました。

特に家事代行の仕事は時給で800円程度と聞いてマリは腰を抜かしました。

(だって彼女の月給と同じ額をたった1時間でもらえるんだもんね)
「しかし貴女の仕事ぶりを見る限り、優秀な日本人Servantの変わりに働く事は無理である。」

「だからここに私がいる間に、日本人のServantになれるよう、練習したらどうか。」

という話へと持って行き、1週間後には「日本で仕事するのは無理だが、

インドで日本人駐在員向けに特別訓練されたServantをめざせ。」

という結論へと持っていきました。


「インドにはServantなら掃いて捨てるほどいるが、

好みの特殊な日本人駐在員にあわせる事ができるServantはなかなかいない。

そういう仕事ができる特殊なServantになれば、駐在員が帰国する時、

他の駐在員に紹介してもらえるから、今後、仕事に困るという事はなくなる。

きちんと仕事すれば、他の外国人に比べて日本人はやさしいし、ものわかりのいい主人だし、

そこで日本語を覚えれば、それはそれで、また、人生に新しい道も開けてくるというもの。」

…と、まぁ、こんなハナシの展開ね。

でも、これって、マリにしたら天地がひっくり返る様な人生の意識改革だったでしょうよ。

今まで、主人に言われるまま動くのを何の疑いもせず、

ひたすら、のんべんだらりと待つだけの人生が唯一当たり前だと思ってきたわけだから。

ことここに至ってやっと、マリは日本人主人(つまり娘ね)が要求しているのが「清潔」「迅速」であるという事を理解し、努力するようになりましたとさ…。

ふーやれやれ…

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年9月29日より    その(14)

さてマリですが…
娘の行動を見て、次ぎに何をするのかと予想し、「・・・しますか?」と聞く事ができるようになりました。

「お帰りなさい」と迎えたら「お茶をおもちしますか?」と聞きいたり、

「何か御用は?」と進んで声をかける事を覚えました。

食事の時には、濡らしたハンドタオルを堅く絞って電子レンジで加熱し、

ほかほかのお絞りを作って出す事を覚えました。

また日本人がこだわるのは「清潔」と理解し、

娘の買ってきたトイレ掃除用タオルと洗面所タオル、その他の拭き掃除用タオルを別々に使う事をお掃除おばさんに指示し、監督しました。

(でも手伝わないのよ。掃除の間中見ているだけ。仕事の分担が違うからなんですと??)

(掃除する間中、雇い主が監督している事もある)

(つまり安心して仕事をまかせられないのがインド)

その他にもまぁ、あれやこれや…娘が要求したのは、日本のマクドナルドサービスレベルなんだけど。


1年後。娘は、デリー大学から、イギリスの大学へと転校しました。

その時、約束通り、マリをある日本人家庭に紹介してあげました。

この時の紹介ポイントは「主人が見ていないところでも、日本方式のまま仕事する」というものでした。


つまり主人が見ていない時は慣れたインド方式で仕事する(つまり手抜き、怠けする)という一般のServantのような仕事はいたしませんよという事。

(効率よく仕事終えれば、その後自由にしても文句をいわないのが日本人雇い主…とマリに理解させていましたから)

そんなこんなで…マリが止めたいと申し出た時、大家夫婦は大いに慌てたそうです。

だってその時には、娘に指導されたマリは、

一番若いのに一番有能なServantとなって、家族から重宝がられていましたからねぇ。

大家夫婦は大幅な月給の値上げを提示して、マリを引き止めようとしました。

でもなぜ、マリが短期間に有能になったか、夫婦はわからないまま。

そしてマリは、今でもデリーのどこかの日本人家庭で元気に働いている事でしょうよ。

めでたし、めでたし。


さてここでこの家の召使たちの紹介…後になってわかった事ですが、この家には通いのおばさんと住み込みの庭師もいました。

総勢7人の召使がいたわけです。

入居当時、娘は「召使達と親しくしてはいけない」ときつく注意されていました。

娘にとっては大家さんも召使も同じインド人。

身分制度のない日本そだち。

そこのところの切り替えができません。ついつい、友達口調になっていまう。

そこを見られ、大家さんからは「あるまじき振る舞い」として、しばしば注意されたのです。

でも、大家さん夫婦の見ていないところでは、娘はみんなと積極的に友達付き合いをしていました。

その一つが召使たちの夜の秘密パーティ?です。


大家さん一家は夜になると、よくそろって出かけます。

デリー近隣には家族揃って遊ぶような施設が余りありません。

だから、知り合い同士の家庭をじゅんぐりに訪問しあうのがよくある楽しみ方。

夕方になって主人一家がでかけてしまうと、召使達は大急ぎで居間に集合します。

テレビを囲んで円座に座り、大音響でテレビをつけます。

召使達が好んで見る番組は、ほとんどがインドミュージカルでした。

もともとなまって聞き取りにくいインド英語な上、登場人物といえば、ぎんぎらぎんの衣装をまとい、

勧善懲悪のストーリーを全員が歌って踊って、大騒ぎするというもの。

(娘はかなり閉口したようですが、ここは我慢)

エアロビクスと阿波踊りをミックスしたようなダンスが画面いっぱい展開されます。

それをテレビと一緒に拍手し、挙句、歌ったり、踊ったり…。

12時近くになると、主人一家が帰って来て、車を車庫に入れる為、外門のブザーを鳴らします。

そのとたん、テレビは消され、門を開けるために召使の1人が出て行き、

その他の召使たちは蜘蛛の子を散らすように居間から消えていなくなる…というわけ。

大家さん夫婦もそこのところはわかっているんだろうけど、黙認…といった感じだったそうです。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

2006年10月7日より   その(15)

さて再び召使の話…住み込みで初任給が月800円ぐらいの給料です。
ヒンズー教にも日本のお盆に似た行事があり、

その日は祭壇に故人の写真を飾り、家の外まわりをロウソクでライトアップ?。

その時主人は召使たちに服を贈るならわしです。

(ここの主人はケチで余りいいものをくれないーと古参の召使が言うとった…が。)

 

この日も大家一家は総出で、昼間からお出かけ。

大学も休みで、退屈を持て余した娘が部屋でごろごろしていると、マリがサリーを着てみないかと持ちかけてきました。(この頃にはもうすっかり、召使たちにとけこんでいた)

(大家さんがいると、お互い、尊大な主人と召使として接するが、いないとなると一転。お気楽お友達関係)

 

マリのサリーを着せてもらい、額にビンディというしるしを描いてもらい、気分はすっかりインド人。

(外人がへんてこな着付けで和服着て喜ぶ気持ちーよくわかったそうな)

これは記念になるーと思い、日本から持参したバカチョンカメラで写真を撮ってもらいました。

ついでに、召使達も家の内外や近所をバックにして撮りまくり。

 

日本式の考えで、3人写っていたら3枚焼き増し注文。

街角の小さな写真屋も驚く、かなり大量の注文をしました。

(40枚くらいなんだけどね)

(こんなに焼き増しするお客は近所にはいなかったようね)


写真が出来てからそれらを、写っている人ごとの束にして配りました。

(これも日本では普通よね)

でも写真を貰った召使達は大喜び。

写真をもらうなんて、滅多にない事らしい。

お互いの写っている写真を見せ合って、みんな子供のように、わぁわぁ、きゃぁきゃぁ、大騒ぎ。

お掃除おばさんリナに至っては、産まれて初めて写真に写った自分を見たそうで、非常に感激してました。

インド人を喜ばすなら写真を撮ってプレゼントすることのようです。


さて今度はコックのマドゥの話。

一口にインド人といってもインドは広い。

北はヒマラヤに接し、南はアフリカのような熱帯気候の国です。

大家さんはデリー近郊生まれなので、欧米人が日焼けした程度の黒さ。

洋服をきているし、ターバンをまいているわけではないので、ちょっと見ただけではインド人とは思えない風貌です。

 

対してコックのマドゥはインド最南端の生まれ。

肌の色ははアフリカ系の黒光りした色です。

マドゥは無口で、腕のいいコックでした。

小学生の子供達に毎朝お弁当を作るのですが、インド料理が苦手な娘には、別にサンドイッチ弁当を作ってくれます。(これがなかなかおいしい。)

しかもラッシーと言ってヨーグルトと砂糖と氷をミックスした飲み物に関しては、

休日に食べ歩いたデリーのどの高級ホテルのものより美味しいものを作ってくれたそうです。

大家さん一家が留守の夜の夕食の時は、娘だけの為に夕食を作ってくれます。

「何が食べたいか」と聞いてくるので、迷わずラッシーとサンドイッチを注文。

インド風ご馳走でなく、あまりに簡単なオーダーなので、彼は戸惑い、注文を聞くたび毎回首を捻ってましたとさ。

 

娘がインドを去るとき、マドゥも故郷で結婚するため、この家を去る事になったので、

何かプレゼントしたいが、何か欲しいものがあるかと聞いたら、おずおずと恥ずかしそうに、例のバカチョンカメラが欲しいーといってきたそうな。

(もちろん、あげましたよ。でも、壊れてもいいようにと、一番安いものを持っていきましたのにーもっと値の張るプレゼントを考えていたのに…)

このあと、イギリス、欧州、アメリカと様々な国の飲み物を味わってきた娘ですが、

マドゥの作るラッシー以上の味の飲み物にはお目にかかった事がないーとぼやいておりますよ。

 

 

 

 


 

 

 

2006年10月16日より  その(16)

インドと言えば紅茶のイメージですが、実は、コーヒーも輸出するほど作られています。

但し、ほとんどは輸出されてしまうので、国内産コーヒーには滅多にお目にかかれません。

そのかわり飲まれているのがネスカフェ。

…なんかおかしくない?インドで「コーヒー」というのは「ネスカフェ」と同義語なのであります。

だから「コーヒー飲まない?」と言うところを「ネスカフェ飲まない?」と言います。

しかも「アイスコーヒー」と注文すると、出てくるのは冷たく冷やされたコーヒー(コールドコーヒー)なんですわ~。

氷を浮かべて飲む習慣がありません。

そりゃそうだ。水道の水が飲めない国です。

氷を作るとしたら、ペットボトルの蒸留水を買ってこなくちゃならない。

氷を作るケースも消毒しなくちゃならないし、氷をはずすのに水道の流水は使えないし…とにかく不便。

ホテルで氷をオーダーしてウイスキー飲んだ日本人が下痢…なんて、よくある話です。

原子力発電所の開発に血道をあげるのもいいですが、暑いインドでは、氷をたくさんいれたアイスコーヒーの登場こそが最重要課題に思えました。


ちなみにコーヒーに添えられるミルクは水牛の乳です。

それを聞いた最初は「げげっ!」と薄気味悪く思い、使用しませんでしたが、モッツァレラチーズの原料でもあるーと知ってからは平気になりました。

でも、インドでは美味しいコーヒーにはお目にかかれないと覚悟したほうがいい。

やはり名産の紅茶を飲むべきでしょう。


我々が泊まっていたSホテルは新宿にもあるおなじみの米国資本のホテルで、サラダバーが「売り」です。

でもこのホテルに宿泊していると告げると、インド駐在員のある方に

「あのホテルのサラダバーは食べないように。野菜をどんな水で洗っているか不明だから、用心に越した事はない」と釘をさされてしまいました。

インドにいて何がつらかったといって、生野菜が食べられないことが一番つらかった!

大根おろし、もろみきゅうり、パリパリレタス、おかかを乗せた玉ねぎスライス等々・・・・。

日本にいれば何と言う事もない、シンプルな野菜料理が恋しくてたまらない。

蛇口をひねれば、飲料水がタダで出てくる日本って、まさしく水の国。
日本の豊かな水の恩恵をしみじみ感謝しました。

日本に生まれた有り難味を再認識する為にも、みなさん、どんどん海外旅行したほうがいいですね。

 

 

 

 


 

 

2006年10月20日より  その(17)

インドと言えばカレーですが、気のせいでしょうか?出てくる料理全てが、カレー味?

・・・いやいや、間違いない!全てがカレー味ですぞ~。

 

マックがあるので入ってみたら、(聖なる牛の)肉で作ったハンバーグなどあるわけがない。

ベジタリアンの国らしく、メニューの全てがコロッケバーガーでした。

その全てにカレー味がする?…。


アメリカ系ピザ屋を発見。

やれ嬉しや…と入った時も、どれを頼んでも、全てカレー味がしました。

(間違いない!)(しかも全部野菜ピザだ!)(ベーコンもハムも使ってないぞ!)


三週間もすると、舌が「カレー味嫌い!」と訴えて、さすがの私も4キロも体重が落ちました。

(今だにカレーを食べられません)

(胸焼けするようになりました)

(胃袋が恐怖の日々を覚えているようです?)

そして、可笑しな事にカレーうどんだけは美味しくいただけます。

カレーうどんはめんつゆとのミックスです。

舌がこれはカレーではない、めんつゆであるーと認識しているらしい。


そういえば…独身時代、浜松に乗馬合宿に行きました。

馬場の隣がうなぎの養殖場だったので、旅館で頼めば朝からうな丼を出してくれました。

それも東京ではお目にかかった事もないような巨大なウナギ

…まるではんぺんのようなウナギが丼からはみ出さんばかりに乗っているうな丼で、最初は喜んでかぶりついていたものの、1週間後に合宿から引き上げる頃には、ウナギを見るのも嫌になっていました。


あくる年には北海道に合宿に行きましたが、合宿所の隣が夕張メロンの畑でした。

馬場に形が悪くて売れないメロンが馬のおやつ用に積み上げてあるので、

「食べていいか?」と聞いたら「どうぞ」というので、みんなでかぶりつきました。

(その頃まだ夕張メロンは高価だった)

そして1週間後にはやはり、メロンが嫌いになっておりました。

どんなおいしいものでも、たまにーほどほどにー食べるのが、おいしく食べるコツなんでしょうね。


さて、話はインドに戻って…インドは暑い。夏に40度はざらです。

しかも湿度があるので、サウナにいるような感じです。

というわけでインドでの常識その1。
買ったペットボトルに直接、口をつけて飲んではいけません。

ボトルから水を滴らせて、大きく開けた口で受け取るようにして飲みましょう。

日本でよくやるように口をつけて飲むと、暑いインドでは、

そこに口の細菌が付いて短時間に繁殖し、二度目に飲む時にはそこが汚染されているので、大下痢を起こすというわけです。

(おーこわ!)

そんなわけで、屋台で色々なものが売られていましたが、私は絶対食べませんでした。

入る店も高級ホテルのレストランかガイドブックに乗っている有名店のみ。

食べるものは火に通してあるものーのみ。

こんなに口に入るものに気を使うから、インドを楽しめなかったのかも知れません。

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年10月28日より   その(18)

娘が下宿に入った時、大家さんから1枚の紙を渡されました。

いわば、「下宿人の心得」みたいなものです。

その中で奇妙だなーと思ったのが、「夜は6時以降エアコンをつけない」?

…高い天井にファンがついているので、夜はそれを使えという事らしい。

電気代を節約しろという事かなと勝手に解釈。


入居してすぐのある日、うっかり6時過ぎたのに気がつかず、エアコンをつけっぱなしにしていました。

すると、いきなり、ブチッ!停電です。

日本式の考えでそのうちつくだろうと考えて、お勉強していると、まもなく電気がつきました。

やれやれと思う間もなく、またブチッ!今度はなかなかつかない。

でもまた付いた。

でもまた、すぐブチッ!停電!

 

「何やってんのよ~!」と腹をたてて、2階に下りていくと、1階では大家さんが子供たちを叱っている?

こっそりマリを呼んで「どうしたの?」と聞くと

「夜はいつも停電するの~。地下のバッテリーで家の中の照明だけは付くようにしているんだけど、今日は子供達がエアコンを消し忘れていたので、バッテリーがすぐ切れちゃったらしい。」

・・・・娘はあわてて、自分の部屋に飛びかえると、エアコンのスイッチを消し、ファンへと切り替えましたとさ。

 

暫くしてスタンドが付き、やれやれと思って宿題を続けていると大家さん登場。

天上のファンが静かに回り、机のスタンドで静かにお勉強している姿を見て、頷く。

(まさかエアコンつけっぱなしで停電引き起こしたのが娘だと露ほど疑わず)

それからマリがしたと同じ説明をし、子供達のせいで迷惑かけたとひとしきりあやまっていきました。

小学生の子供達もうっかりエアコンつけっぱなしにしていたからよかったものの、だいたい、暑いインドで夜にエアコン使えないって、どういう事?!と思いません?

 

同じアジアの新興国でも中国は共産主義の国なので、発電所を作ろうと思えば、住民を強制的に退去させ工事を始めることができます。

でもインドは民主主義の国なんですら~。

電力が不足しているから発電所を作りたいのでどいてくれーハイそうですかと、住民が移住してくれません。

立ち退き問題ですったもんだ揉めるのは日本と同じです。

というわけで、停電はインドの日常茶飯事なのです。

デリー市内では、夜になると家庭で一斉にエアコン使うから、停電も頻発。

それで各家庭では、夜はバッテリーで自家発電しているのです。

しかし、バッテリーではエアコンの電力まで賄えない。

それで夜は消費電力の少ないファンを使えーという事なのだとわかりました。


ただでさえ不足している電力なのに「盗電」も日常茶飯事。

路傍に点在する屋台の多くは、電線を電信柱に勝手につないで、タダで電気を利用していました。

あ然ぼう然のインド風景です。

 

 

 

 

 

 


 

 

2006年11月5日より  その(19)

これも私が帰ってからのハナシ・・・下宿先には二人の男の子がいました。

長男は小学校5年生。縁ナシ眼鏡をかけたインド版ハリーポッターといった風貌。

礼儀正しい紳士の卵で、両親自慢の優秀な息子でした。

お行儀がいいぶん、娘に対しても距離を置いて接していて(というかーかなりかなり冷ややか)会話することも稀でした。


一方、次男は小学校1年生。兄とは対照的な存在です。

古い漫画ですがパタリロってご存知?

あのパタリロそっくり。

でっぷり太って食いしん坊で愛嬌たっぷり。家にいる時は、ナニー(子守)にべったりの甘えん坊です。

寝る時はいつもナニーがつきっきりで寝かしつけています。

このパタリロ弟は、東洋のはずれから来たという娘に興味津々。

すぐさま娘に擦り寄ってきました。

家では、できのいいお兄ちゃんは、お勉強三昧。

4歳下の甘ったれ弟にかまってくれないし、遊んでくれる事などもってのほか。

だから娘に宿題を教えてもらい、遊んでもらえて、パタリロ弟は、おおはしゃぎ。


娘は娘で、兄弟と言えば、体育会系の無愛想な兄しか知らなかったので、なついてくるこのちびすけが可愛くてしょうがない。

というわけで、二人は意気投合。

パタリロ弟は学校から帰ると、娘の部屋に直行するようになりました。

マッチ棒パズルやクロスワード、トランプと遊び、あっち向いてホイ…と、遊びは限りなく続く。

とうとう両親から、(娘の)お勉強のじゃまになるから30分だけよーと釘をさされてしまうほど。

そんな二人を、ハリポッターお兄ちゃんは冷ややかに見ていました。


1ヶ月ほどたったある日の夜、両親は揃ってお出かけで、おばあさんと兄弟がお留守番する事になりました。

そこに娘が加わって4人で夕食をとることになりました。

おばあさんと娘が会話します。何かの値段について話していました。

正価は1万ルピーだけど、10%割引で9000ルピーだし、もっと割り引いて15%割引してもらえば8500ルピーになるから助かるんだけどなぁ…。

そのとたん、兄の眼鏡がきらり。

「数学が得意なんだね?」数学って…?こんな暗算を数学と呼ぶべきか?

ハリーポッター兄は、日本からきたぐーたら娘を徹底的に、なめていたらしい。

いやいや日本自体をよく知らないで、なめていたらしい。

1+6ぐらいわかれは御の字と思っていた節が…。

「数学は得意じゃないけど、一応勉強したよ」といったら、訝しげに眉を寄せていました。

そのあと彼が悩んでいた宿題を丁寧に解説してあげたら、非常に驚いていました。

(君って頭いいんだね…って、小学生の応用問題が解けないでどうすんの)


そのあと、部屋にピアノが置いてあったので、「今、どんな曲を習っているの?」と聞いたら、練習曲をひいてみせ「どんなもんだ」とばかり胸をはりました。

しかも「日本にピアノはあるのか?」ときたもんだ。

「ピアノは習ったことないけど、家にピアノがあったから時々弾いてたよ」と言った娘は、

お気に入りのドラゴンクエストを弾いてみせました。

ゲームソフトの曲だけど、弾いている両手の動きはさも難解な曲風…の派手な動きをする曲だし、

ゲームを盛り上げる為に荘厳な曲調で、耳障りがいいんです。

ハリーポッター兄はア然。

「ホントにピアノを習った事ないのォ…!?」

(その頃テレビゲームのドラゴンクエストが最盛期。当然、小学生の頃から熱中していた娘は曲などそらんじていて、当たり前。

ピアノは習わなくても見よう見まねで弾けました。)

この時になってようやく彼は「この東洋からきたお姉さん、見かけにだまされちゃいけない。タダモノじゃないぞ」と思ったらしい。

でも、お澄まし屋の兄を徹底的に打ちのめし、以後、娘の忠実な部下となすきっかけとなったトドメの事件が起こるのは、それからすぐあとの事です。

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年11月10日より   その(20)

さて、入学してお友達もたくさんできた娘ですが、

暫くしたある週末に、女の子だけのパジャマパーティに呼ばれしました。

大家さんに「今日は泊まってきます」と言って出てきたものの、いざ泊まろうとしたお友達の部屋は、

以前下宿探しの時見たようなインド学生の住む一般的な部屋です。

(つまり床にアリが這いずり回っている)虫の苦手な娘にとっては、アリやムカデとベッドを共にする勇気がどうしてもでない。

…というわけで急遽帰宅することにしました。
夜中ですが、タクシーで住宅街の門まで行き、もう顔なじみの常駐の門番を起こして門を開けてもらいました。

そこから歩いて住宅街の端にある下宿へと帰りつき、ベルを鳴らしました。

ところがいくら鳴らしても、召使が出て来ない。

門のベルは一階にあり、召使部屋は二階の端なので聞こえないのです。

(ちなみに大家さん家族の寝室も二階です)

家中真っ暗。全員寝てしまったようです。仕方ないので娘は門をよじ登ることにしました。


門はイラクサ模様の透かし彫り。

3メートルほどですが、足をかければ簡単に登れたそうです。

そこから前庭を通って家の玄関にたどり着き、今度は家のベルを鳴らしました。

二三度鳴らした時、いきなり家中の電気がついたと思ったら、

召使全員と寝ぼけまなこの大家さん一家が玄関に勢ぞろい?!

「すいません。外のベルを鳴らしたんだけど、誰も出てこなかったので…」

という娘に

「玄関のベルが鳴るなんて初めての事だから、びっくりした」とか…。

言われてみれば、門のベルが鳴ると召使が家から出て行って門を開けていました。

つまり家のベルはあることはあるけど、これまで使った事がなかったのです。

だから聞きなれないベルの音に、一体全体何事?!ーと、びっくりして全員が飛び起きたらしい。

「すいませ~ん。泊まるつもりだったけど、帰りたくなって…」などと、もそもそ言い訳している娘に、

おばあさんがふと気がついて

「門を開けないで、どうやって玄関までこられたの?」

「あぁ、門をよじ登ってきました。」

 

あっけらかんと言う娘の言葉を聞いて全員、凍りつく?

その様子を見た娘はあわてて、

「いや~危なくないですよ。簡単でしたよぉ。」

全員、無言のまま?

その時、お澄ましやのハリーポッター似の兄が興奮したように叫んだ。

「オゥ、グレート!ニンジャー!」…って、それ、なに?


つまり前述したように、インド上流家庭の子女というものは、何でもかんでも召使まかせ。

カーテン一つ自分で開けられないというのが、お嬢様たるあかし。

それを、夜中に門を軽々とよじ登って帰宅するこの日本娘はいったい…とみんな度肝を抜かれたようで。(汗)

さらに付け加えると、インド人は映画好きです。

ハリポタ兄も日本の忍者映画を見たんでしょうね。

だから、らくらく門をよじ登って帰宅した娘を、忍者だとでも思ったのかな?

でもそれ以降、それまでよそよそしかったハリポタ兄は、態度が一変。尊敬と憧れの目を持って娘を見るようになったばかりか、以後は娘の忠実なパシリとなりましたそうで。(大笑)

 

 

 


 

 

2006年11月18日より  その(21)

娘は、大学へ通うのに、学割定期があるというのでバスを使う予定でした。

1ヶ月50ルピーだったかな?とにかく滅茶苦茶、安い。安いにはわけがあった。


友達の案内でためしに乗ったけど、バス通学を、即、断念。

まず、バスはとんでもなくおんぼろだった。(日本ならとうに廃棄処分されているようなしろもの)

座っただけで服が汚れそうな車内。

さらに乗り込むと車内全員が注目してくるので(これは日本とは違った習慣)

(意味ない注視なんだけど)

日本人の感覚ではうす気味悪い事かぎりなし。

さらにいつでも混んでいる=痴漢が多い(どこでも男は同じだぁ~)。

というわけでリキシャーで通学することにしました。


リキシャーは東南アジアでも多くみられますね。

小型三輪オートバイみたいな乗り物。語源は日本の力車だそうです。

一応屋根は付いているけど、雨や風は吹き込みます。

原則的に二人乗りです。

リキシャーは道路際にいつもたむろしていて、乗る前に目的地を告げ、まず、値段を交渉してから乗車します。

メーターはあるけど、それを使うドライバーはナシ。

こちらが外人だとわかると、(当然)高い値段を吹っかけてきます。

高いといっても日本円で5円10円のハナシなんですが、ふっかけて来る根性が憎い。

というわけで、リキシャードライバーと小競り合いするところから朝が始ります。

 

大学までの片道は日本円で80円以下。

都バスに乗ると片道だけで210円ですから、安いものです。

しかも帰りは同じ方向の友達と乗り合わせる事が多いので実質40円。

私立小学校近辺では、二人乗りの座席に6~7人ぐらいの小学生が、

鈴なりに乗りこんで帰宅する恐ろしい風景をよく見ました。

またある日、遠出したデリーの街外れから帰ろうとリキシャーを止めたがいいが、

運転手が英語が話せないというトラブルに遭遇しました。

デリー市内を走るリキシャードライバーなら何とか英語が通じます。

でもちょっと街をはずれると、英語は通じないわ、地図も読めないわというドライバーばかり。

この時は道路に立って、通りかかる(裕福そうな)インド人に

「英語わかりますか?」と声をかけまくり、やっと一人のおじさんを捕まえて、

「○○ホテルへ行きたいんだが、運転手は英語がわからないので伝えてくれないか?」とお願いして、やっとホテルへ帰れました。

遠出する時はタクシーを1日借り切るのが安心なようです。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

2006年11月24日より   その(22)

インド特に、大都市の繁華街では思いとおりには歩けない…と思った方が宜しい。

とにかく、客引きが多い。

旅行者には、次から次へと客引きが寄って来るのです。

 

ここで、当時18才だった娘の日記を無断で(ごめん、でも臨場感溢れてるぞ~)載せます。
・・・・・・「クソの役にもたたんようなやつを売りつけようと、もみ手をしながらやってくるやつら。

「ハーイ、マダム?」とか言ってなんだこいつら。なぜ語尾が上がる。

「ポストカード?パイプ?」というのもあれば「コニチワ、アリガト」って私アナタに何かした?

「ヘロウ、タイマ?」とか、危ないのもたまにいるよ。

しかし、しつこい。

あちこちから登場。おっ!オメー、どこに隠れてやがった!

シャツを押し付けてきて「Very nice shirt! Madam!」という奴には「So dirty.」と言って払いのけてやった。」・・・・・


当時インドの人口は9億でした。全部が全部、貧困層というわけじゃありません。

日本の総人口1億5000万と同じだけのインド人は西洋の文化の恩恵を受け、日本人と同レベルの暮らしをしています。ただ残りの7億5000万人のインド人は、エレベーターを見たこともなく、文字も読めず、

1日5ルピー(15円)あれば上等という暮らしをしているのです。

空港や道路で、一日中、通る人をぼんやり眺めているだけの人たちがそれです。

その中で少しでもガッツある人達は何とかお金を得られないかーと考えます。

そこで彼等が目を付けたのは、不慣れでとろくて、そのくせお金だけはたっぷり持っている外国人旅行者…。


用があって日本大使館に行った時、そこで一人の日本青年にあい、おしゃべりしました。

(インドの鎌倉的な存在の)アーグラーに行ってきたばかりなのよーという話をすると

彼の恐ろしいアーグラー体験を話してくれました。

彼はデリーのそれなりの旅行社で、アーグラーまでの往復バス切符を買ったのに、

行く途中でいきなりバスから降ろされてしまったそうです。

さらに帰りのバス切符も実は無効で、アーグラーで立ち往生したとか。

しかも彼はインドに着いて早々、デリー市内で真昼間、いきなり数人に取り囲まれ、あっという間に身ぐるみはがされたそうです。

しょっていたリュックは勿論のこと、履いていたスニーカーまで略奪されたとか。

幸いパスポートだけは、首から紐でつるしていたので無事だったとか。

大使館へ駆け込み、急いで日本から送金してもらったそうです。

リュックだの靴だのは、インドでは爆安値段でそろえられますからあっという間に再装備。

今度はナイキだのプーマだのというブランド品でなく、現地に溶け込むボロ装備。

そのおかげか、その後2週間かけて、インドを安全に放浪。

「散々騙され、ぼられてもうへとへと。でもここまでされないとインドを堪能したとは言えないからね。」

とすがすがしささえ浮かべた表情で笑ってみせた青年に、おばさんはただ絶句するのみ。

若いって素晴らしいなぁ。

何でも肥やしにしてしまうのね。と思ったら、

彼はこれからイランイラクへ向かうのだとか。冒険心に富んだチャレンジャーというべきなんでしょうかね。

少なくとも、息子でなくてよかった…というのが真情でしたけど。

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年12月1日より     その(23)

インドへ行って何がよかったかと言って、私が大威張りで歩けたこと。

 

こちらでは、中年女性のふくよかな体型は当たり前。

裕福階層のステータスでもあります。

インドでは家にたくさんの召使がいるのが、当たり前。

家事をしないのも当たり前。

おまけに暑いものだから、必ず火を通した香辛料の効いた油っぽい料理を食べるし、

大の大人の男でさえ、食事時には、コーラをお供にぱくぱく…なものだから、

奥様族がふくよかなのは、当たり前。

日本にいる時「ママ、もっと痩せなくちゃね~。」と言っていたスタイル自慢のやせっぽち娘は、

インドに来たとたん、あっちこっちで「お嬢さん!もっと太らなくちゃね~。」と言われまくりでげんなり。

そうよね。ヨーロッパでは彫刻でも絵画でも、ふくよかなモデルが多かった。

いつのころからなんでしょうか?痩せっぽちが基準になったのは?けしからん!まったく!


ところで、国が違うと美人ハンサムの基準が違います。
インドでのぶっちぎりハンサムは、日本的感覚でみると、

「暑苦しいおっちゃん」以外の何物でもなかったね~。

娘が学校に慣れてくると、そこはそれ、お決まりの「告白ごっこ」。

でも8年前のインドでは大学生で彼氏がいるという子は、少なかったそうです。

「あの人すてきよね」と言われても娘は「・・・」。

コメントしようがないそうで。

その中にいつも彼氏の写真を持ち歩き、友達に「これ、私の彼なの。」と自慢して歩くアイリーンという子がおりました。娘曰く「見せたいような彼氏じゃなかった…というか、見せられないような彼氏だった」そうで。

「凄いのは他の友達がみんな「So Ugry!」と平気で言っているところ。

「さすが外国。素晴らしいよ。いくら私でも人のカレシのこと(うわっ!超ブサイク!)なんて面と向かって言えんもの。」

娘は日本人なものですから、一応気を使って「Good」ぐらいの控えめなコメントしたそうです。

そうしたらアイリーンの喜ぶこと、喜ぶこと!
「この国にはお世辞or建前という言葉はないのか?」と驚いたそうで。

暫くの間アイリーンはおしかけ親友していたそうです。

よっぽど嬉しかったんでしょうね。


ちなみにこの頃日本で流行っていたプリクラのアルバムが大人気。

みんな欲しがって貰っていってノートに貼っていました。

「これが日本人の友達なの」と自慢したいそうで…って。

バーニーちゃんだの、ちょんまげだのヒゲつきだの。

そんなプリクラ見せられたインド人は何て思うのやら?日本人ってクレイジー…と思ったんでは?

 

 

 

 



 

 

 

 

2006年12月19日より   その(24)

インド家庭では夕食のお招きのやり取りが多いと以前、書きましたよね。
夕食時にはお客が来ているか、お客に行くかーそのどちらかです。

平日は、子供達は学校があるので出かけません。

でもおばあさんと両親たちは夜中までお客ごっこをしているので当然、朝起きるのが遅い。

平日の朝食は9時ごろです。

お昼は午後の3時!

夕食は夜の9時ですぞぉ~!

最初の頃はコックのマドウの作ってくれたサンドイッチを学校に持って行った娘ですが、

そのうちお弁当を持たされたら、それを部屋の冷蔵庫に入れてから学校に行くようになりました。

暑苦しい大学まで持って行って、生温かいサンドイッチを食べるのは…だって大学は3時ごろまでには終わります。

奥さんとおばあさんの他に、お昼を食べに帰っているご主人も加わって

ちょうど3人がお昼ご飯を食べている時間に帰宅します。


だからお昼ごはんは、家に帰ってから、

冷蔵庫で適度に冷えているサンドイッチを取り出して食べるのが、理にかなっているというわけ。

それにちゃんとしたもの(洋風料理)が食べたくなるので、

時々は、学校帰りに米国系ホテルへとランチを食べに行っていました。

総額1500円くらいの予算は日本的感覚ですね。

スパゲッティだのグラタンだのと紅茶代込みで…。

大体ホテルのランチなんて、お客は少ないし、とりわけ、若い娘が一人でランチする姿は珍しかったらしい。

最初はどこのホテルレストランでも、娘を迎えるとボーイ全員が硬直&注目?

でも何度か行くうちに彼等も慣れてきて、娘が行くと、そっと微笑んだりしてみせて。

それはそれで、ちょっと居心地よかったりして…。

しかもボーイからポットで恭しく供される食後のインド紅茶と、

静かで広々した豪華なレストランの独り占め雰囲気は格別だったとか。

はじめのうち娘は「1500円でこんな満足できて、ラッキー!」なんて喜んでいたんですが…


ある日大家さんが「今日は外食に行くよ。」と張り切って家族に宣言しました。
子供達も「わーい、わーい、外食だ!」なんて大はしゃぎ。

外食というのはイベントらしい。

娘もかなり嬉しくなって期待して参加。

車2台に分乗して向かった先は・・・・なんとマクドナルド?!

例のカレー味のコロッケバーガーや氷なしのコールドコーラを渡された娘は絶句。

「日本にはマクドナルドあるの?」なんて聞かれて「ええ、まぁ…。」と答えるだけの分別はあったようで。

マックは、学校帰りにお茶するところ…なんて、とても言えませんよね。

だって、家族はものすごく盛り上がっている?

家族揃って夕食にマクドナルドへ来るって、特別な事らしい。

それだけはわかったから、下手な事はいわないで、もくもくとコロッケバーガーを食べたそうです。

ちなみに店は汚い。

日本のように掃除が行き届かないで、テーブルはべたべた。

床もゴミが散らばったまま。

テーブルのリノリュウムははがれているわ、トイレは薄汚れているわ…。

とてもゆったり食事する雰囲気ではなかったそうです。

でも家族はとても嬉しそう。最期まで大盛り上がりだったとか。


またある日、地方からお客がきました。

その夜も外食に行くというのでマクドナルドなら断ろうと思ったら、本日はチャイニーズレストランだとか。

ゲストも入れて総勢11人。

今回は最初から覚悟して行きました。

ところが予想外。

綺麗な店だし、おいしくてしかも、値段を聞いてびっくり。めちゃくちゃ安い!
ミネラルウオーターが25ルピー(75円ぐらい)。

料理も一皿80ルピー(240円ぐらい)。

それってホテルで取るランチのときの紅茶代ぐらい?

デリーでは、こんな安い値段でそこそこの中華が食べられるんだーと知った娘は

それ以後は、ホテルランチでなく、チャイニーズレストラン巡りに切り替えたそうです。

インドではピザでもマクドナルドでもなんとなくカレー味して、うんざりしますが、中華なら、満足できそうです。

お勧め。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年12月16日より    その(25)

唐突ですが、アイリーンが失恋しました。

 

超ブサイクなカレシですが、それでも嬉しそうに自慢していたアイリーンでした。

でも浮かれて友達に紹介しまくった挙句、その友達のうちの一人に取られてしまったとか。

カレシもカレシなら、あんな男を友情を壊してまで取る友達って?…と思った娘ですが、

アイリーンが相当落ち込んでいるので、彼女を誘って友人たちと、カーニバルへ遊びに行くことにしました。


カーニバルには移動遊園地が出ていました。

そこに観覧車があって、みんな列を作って並んでいます。

でもそれは、どう見ても、家にある脚立を組み立てたようなシロモノ。

いつばらばらになってもおかしくないようなチンケなシロモノ。

これに人を乗せて商売していいと許可するなんて、インド政府はいったい何を考えているのやら。

あまりにアバウトすぎやしませんか?

 

娘はかなりびびったそうですが、一緒にいる友達たちは、大はしゃぎ。

「乗ろうよ!乗ろうよ!」と盛り上がって

「私はちょっと…」と遠慮する娘を「なんだ~こんなの怖いの?弱虫ね~」と、笑って列に引きずり込みます。

二人乗りぶらんこみたいなシートがぶらさがり、それがよろよろ細いパイプに連なって廻っています。

しかも人力ですぞ?

コンセプトは「肝だめし」とは到底思えない…?


無理やりひきずりこまれたシートに乗ると、ゆっくり観覧車(まがい?)が回りはじめます。

みんな「高~い!」「ギャァ~!」と大騒ぎ。

それって怖さを楽しんでいる叫び声ですが、娘は目を瞑って華奢なパイプを握り締めて…マンマイダブ。

観覧車の高さは三階建てくらいですが…。

高さが怖いんじゃない。このぼろさが怖いのじゃぁぁぁ!!

それは子供の頃から慣れ親しんできた日本の遊園地では、決して味わう事のできない怖さだったとか。

無事地上に降り立ってから、めちゃ青ざめている娘をみたアイリーンが無邪気に

「日本にはこういう遊園地ないの?」と聞いてきた時、娘は即座に叫んだそうです。

「こんな怖い乗り物に乗ったことない!」

娘曰く

「日本の絶叫マシーン何するものぞ!インドの人力観覧車に勝る絶叫マシーンはありませんぞぉ~!」

 

 

 

 


 

 

 

 

2006年12月21日より  その(26)

さて、アイリーンの失恋の痛手を癒すために、今度はみんなでクラブに押し出す事になりました。

もちろん、まだ18歳だった娘は「クラブ」初体験です。
8年前のインドのクラブとは、だだっ広い倉庫で行われていました。

安っぽい飾りつけと、会場の片隅に置かれたテーブル上に、ちょっとしたスナックが置かれているだけ。

飲み物は別会計です。会場にいる若者はみんなが踊っているわけでもなく、

ほとんどはあちこちで小さなグループを作って飲み物片手に、ぼそぼそ談笑しているだけ。

なんかつまんないものだなと拍子抜けして、水っぽいドリンクをなめていると、

男の子たちが娘のグループに声をかけてくるようになりました。

そのうちなんとなくカップルが出来上がって、みんなそれなりに楽しそうにおしゃべり。楽しくないのは娘だけ。

以前にも書きましたが、一口に英語といっても、インド英語はなまっている。

そうインド英語に慣れていない娘へ、早口でぺらぺらしゃべりかけられてもさっぱり意味がわからないのは当然。
余談ですがこのあとイギリスの大学へ転校して、4年間クイーンズイングリッシュを身に付けた娘が

この夏、アメリカへいきました。

そこで米語を聞いて、そのわかりやすさにびっくり。

ものすごく聞き取りやすかったと感激してました。

ところが、娘がクイーンズイングリッシュで話しだすと大抵のアメリカ人は、えっ?えっ?と聞き返すのだとか。

つまり同じ英語でも、アメリカ人にとって、イギリス英語はなまって聞こえにくいらしい。

(私には全部同じに聞こえるけどね)

 

さて、インドの北の方で中国と国境を接しているあたりに住むインド人をチンキーズと呼びます。

清(チン)から来て、インドに定住した人々です。

話す言葉も習慣もインド人ですが、外見は中国人そのもの。

チンキーズはデリーにたくさんいます。

だから話しかけてきた男の子たちは、娘をチンキーズだと思ったらしい。

「私は留学生。日本から来た。もっとゆっくり話して」と言われて、彼等はびっくり。

日本人の留学生とわかると、それはそれで人気者。

でもこういうところにくるのは、それなりの生活レベルの若者たちです。

という事は、食事時にコーラを飲みながら、脂ぎった料理を食べ、召使に囲まれて運動不足の人種。つまり、若いのにかなり肥満体だという事ね。

娘が最も苦手とするタイプ。

(蚊トンボタイプが好きなんですと?)

会場はぼろっちい。

照明はみみっちい。

料理もドリンクもお粗末。

音楽は迫力ないし、熱気もみあたらない。

幸いアイリーンはカップルになっていたので、娘はとっとと退散。

ご自慢のマイカーで送ってくれると言う男の子たちを振り切って、

身分相応におんぼろリキシャーをつかまえて早々に帰宅しました。

後で聞くと結局、アイリーンはそこで、新しい彼氏をゲットできなかったようで。

でもまぁ、気分転換にはなったようね。
ところでその後、娘はチンキーズを装うようになりました。

すると、あら、びっくり。リキシャーやタクシーに乗るとき料金をふっかけられない。

地元料金です。

また、路上で押し売りにまとわりつかれなくなったとか。

最初の頃は「インドではまっすぐ道をあるけんのか」と怒るくらい、

行く先々にハエのように集まってくるしつこい物売りが前に立ちはだかっていました。

それがチンキーズらしく、足を引きずるようにのたのた歩くようになったら

(というか暑いインドではみんな動作緩慢)道が普通に歩けるようになった?よかったね。

 

 

 

 

 


 

 

2007年1月13日より    その(27)

大学は日本もインドもお休みが多いところらしい。
突然2週間の休みになった時、当然のようにクラスメート達はこぞってタイへと出かけた?

ショッピングツアーに…ですよ。

それは日本人がパリに出かけるようなもの。

インド人はおしゃれなものを買う時はタイへと行くものらしい。

娘も誘われたけれど、当時の娘は「タイ~?」と思ったそうで断りました。

ところが帰国してしばらく後になって、友達に誘われタイ近辺へと旅行に出かけました。

その時初めてバンコクを見て、「なるほど」と思ったそうです。

市内は近代化され、コンンビニはあちこちにあるし、おしゃれな店もたくさんあって、楽しい街だったとか。

8年前でもタイはかなり、おしゃれな町だったのでしょう。

おしゃれに興味ある若いインド娘たちが、こぞってショッピングツアーにでかけるのも…むべなるかな。

 

一方娘は親のふところ具合なぞ、知る由もなく、往復26万の飛行機を使ってとっと里帰りしてきました。

いきなり日本へ帰ってきたと思ったら今度は「京都を見てくる」と出かけたっきり。

帰国3日前に自宅に帰ってきたと思ったら、今度は連日靴屋めぐり。

クラスメートにブーツを買ってくるよう頼まれたそうです。インドでブーツ?
冬に履くのだそうです。

こればっかりは南国のタイでは売っていませんね。

若いインド娘たちにとって、冬にブーツを履くのが、とってもおしゃれらしい。

とにかく娘は大量のバーゲンブーツをお土産にして、怒涛のごとくインドへと帰っていきました。

 

 


 

 

 

 

2007年2月8日より   その(28)

7月8月のインドは雨季です。

1日1回はスコールがあります。

そして土砂降りの雨が去った後は、道路に水が溢れます。

ごみだらけのどろ水の汚いこと!

そこにはのら牛がそこいら中に撒き散らした牛糞もたっぷり含まれているのです。

 

街中を走り回るリキシャーも、当然のように半分水に浸かって進むのですが、

その有様はまるで街中にモーターボートが溢れているようでした。

もちろん座席には泥水が浸入。お客の足は水浸し。

ここでアドバイス…雨季のインドでリキシャーに乗るときは、座席の上にしゃがんで乗りましょう。

娘も学校や下宿に慣れたので、私がそろそろ日本に帰ろうかーという時、大事件が起こりました。

インドは物価が安いうえ、季節は夏。

店先にかわいいサンダルが溢れているので、娘は普段履き用に一つ買い、愛用していました。

道端に生えた雑草か何かで切ったのでしょうか。

右足の甲に切り傷を作りました。紙できったような、ほんのちょっとした傷です。
それが見る見るうちに化膿してきたので大家さんの紹介で、近所の医者に行きました。

すると、医者のアドバイスというのが、毎晩、バケツに熱いお湯を入れて足を温めなさいというもの?

日本とは正反対ですね。

インドでは冷やさないんですよ。

これじゃあ、化膿してしまう?案の定、娘の右足はみるみるうちに腫れ上がってきて、

あっという間に象の足首のようになりました。

次に医者が言ったのは…手術しましょう!!

なんだぁぁぁぁ~っ!あんなちっぽけな切り傷。

日本なら放っておけば自然に治る傷ですぞ。

医者曰く「家でシャワー浴びました?シャワーは汚いから、そこからばい菌が入ったんでしょう。」

おいおい。家の水道の水が飲めないのは知っていたけど、インドの水道ってそこまで汚染された水がでてくるのか?!そんなんで水道の意味あるんか?!

怒ったってしょうがない。

インドで手術なんて死んでしまう!怖い!絶対やだ!と泣き喚く娘を連れて、私は日本へ帰って来ました。

JALはデリー空港でも機内でも成田空港でも、車椅子を出してくれました。

成田空港から家の近くの総合病院まで、車を飛ばして直行。

病院では急患扱いで外科の先生にみてもらいました。

で、どうなったかって?先生は内服薬をくれましたよ。

しかも「手術は?」と聞くと「必要ありませんよ。」…???

先生の言ったとおり、内服薬を飲んで3日目には、あれだけ腫れ上がった象のような足首の腫れは

見事に治りましたよ。ビバ!日本の医療技術!
結局日本に8日ばかりいて、娘はインドへと帰っていきました。

ちっぽけな切り傷治療に(飛行機代)26万かかったわけです。

あとから現地駐在の知り合いに聞くと、彼等の家族は決してサンダルを履かないそうです。

インドでは運動靴で足を守るのが常識なんですと。

今回の騒動を見てわかるように、日本では滅多にお目にかかれないような、

原始的なばい菌がいるのがうようよしているのがインドなのです。

日本にもういないばい菌だけに、日本人にはかえって耐性がないんですと。

そしてインドでは、体にちょっとでも傷をつくったら、決してプールやシャワーに入っては行けないんですと。

ちょっと切ったら、なめて治す…なんて行為は日本だけなんですよ。

 

 



 

 

 

2007年2月11日より    その(29)

今までは主人の出張中を狙ってお一人様旅行に行っていましたが、

今回からは、娘がお休みの間、お留守番&パパのお世話をお願いして旅行する事ができるようになりました。

というわけで、この連休中に旅行にいってきましたが、まぁ、移動中の乗り物もホテルも人がいっぱい。

高速も渋滞。疲れましたわ~。

おばさんの一人旅は平日に限りますね…。

さてインドのお話。
デリー市内には「のら牛」がたくさんいますが、彼等はリタイヤorリストラされた牛たちです。

牛肉を食べる習慣がない国ですし、牛は聖なる動物という事で、

たとえのら牛でも社会ではそれなりにあつかわれ生きていけます。

最初の頃は、インドでは道路の中央分離帯とは、牛を置いておく場所なのかと驚きましたよ。

だって、樹木は一本も植えられていないで、牛が立ったり座ったりしているだけなんですものねぇ。

それがのら牛たちが、行き来する自動車の巻き上げる風を扇風機替わりにして、

涼を取っている姿…だと知って、びっくりするやら、おかしいやら。

そうね、彼等もなかなか賢いですね。ザブトン1枚!

娘の下宿先に泊まった時の事。
朝食は9時だと言われているけれど、習慣で6時ごろ起床。

ベランダに出て、窓を開け放ってさわやかな朝風を楽しんでいると、

どこからかともなく聞こえてきたのは物凄い泣き声。

「ばう、ばう」とも「ガオ、ガオ」とも?初めて聞く妙な吼え声です。

「なんだ、なんだ。」とテラスから身を乗り出して、下の道路を探していると
遠くの曲がり角から現れたのは、二頭の牛でした。

牛があんな、がなり声をだすものだとは知りませんでした。

何があったのか、これからどうなるのか?

母娘が固唾を飲んで見下ろしていると、あちこちの家から、召使たちがわらわらと出てきました。

平然としているばかりでなく、それぞれが何かしら携えていて、

それらをがなりたてている牛たちの鼻先に差し出します。

どうやら食べ物らしい。
牛はむしゃむしゃと、あるいは気に入らないと、ぷぃっと顔をそむけ、

相変わらず、「ばおばお」「ガオガオ」吼えながら、通り過ぎてゆきました。あ然。

あの大声は「腹、減った、なんか、くれ!」という事なんでしょうかね。まぁ、ふてぶてしいこと…。

 

 


 

 

 

2007年3月4日より  その(30)

大学がストライキで急に1週間お休みになったのをこれ幸いとして、娘はデリーの三菱銀行へとでかけました。

手持ちの円をルピーに交換する為です。
銀行にいったら、あら、うれしや!日本人がたくさんいました。

この日ここで会えた日本人は全部で10人だったそうです。

このうちの二人組みは昨日着いたばかりの東京の大学生たち。

香港、中国を廻ってきたそうです

暫く日本語を話していなかった娘は、日本語が話せて凄く嬉しかったとか。
一緒にウインピーというレストランへ行きました。

ここは米国系のファーストフード風レストラン。

しかも店内は外国人客がほとんどです。

店内は明るいアメリカンスタイルだし、目に入る限りは紅毛碧眼の人種ばかりだし、

連れ立つ相手は日本人なので、娘はインドである事を忘れて、すっかりくつろいで楽しく過ごしていました。

するとそれを見かけたとある若い日本人男性が声をかけてきました。

今日これから日本へ帰るんだとか…

「いやもう、下痢は止まらないし、騙されしすぎて人間不信にはなるし。一刻も早く帰りたいです。

インドマフイアに殺されたっていう韓国人と、どこかの外国人二人見ました。あ、すいません、これからインドって人達にこんな事言って。」

と怖いこと散々言って去って行きました。

残された3人は暫く、寡黙だったとか。
でも、ようやく気をとり直した二人が、チャンドニーチョークに行きたいと言い出しました。

「なんですか、それ?」

そうしたら彼等は大げさに驚いて「通りの名前だよ。えーっ!知らないの?!」

バザールがたくさんあるところらしい。

でもクラスメートから行ってみようと誘われたことなかったしね…?はて、どんな名所なの?という事で、

娘も二人に同行してリキシャーに乗りました。

でも「リキシャーを降りると、そこは地獄だった。」

 

ぐわぉぉぉという騒音。

2万人参加の東京マラソンのスタート地点みたいな喧騒に加えて、ゴミと異臭が立ちのぼる場所。

娘には人類の最果ての最低の地に見えたそうです。

でも二人は、面白い面白いと大興奮?!インドに来た~!って気がするそうです。

 

狭い通りの両側に、ところせましと並んだ屋台風のお店に並べられているのは、

「こんなもの売っていいの?」という意味不明の日用雑貨類でした。

すなわち1回洗ったら染料が流れ落ちるような粗悪な服。

バンドエイドも1枚ずつのばら売りです?!

日本のセロテープもプラスチックケースに埃が降り積もり、へばりつき、中身がかろうじて確認できるといったあんばい。おっとと…通りの真ん中を象がのしのし、やってきたゾ~!

 

ここを見て初めて、娘も文句たらたらの今の下宿生活が、いかに、恵まれた住環境だったのか理解し、

改めて親に感謝したそうです。

大学のクラスメート達が、留学生の娘に、紹介し案内するような場所ではなかったのです。

さらにこういう機会がないと絶対、くることのない場所だったでしょうね。

スラムじゃないけど、ごみためにしか見えないチャンドニーチョーク。

とてもいい経験にはなったのは確か。

「あぁ、色々なもの見てしまった。すごいなぁ。でも二度と来たくない。」娘の正直な感想です。

 

 


 

 

2007年3月11日より   その(31)

娘の日記より
夕食時に弟(小学1年)が泣いていた。

「なぜ泣いているの?」と兄(小学5年)に聞くと

弟は食事時にペプシを飲みたいのだが、お母さんから、水を飲めと言われて、すねているのだそうだ。

ハナ血吹くかと思った。

 

そんなんだから、ハラがでるのよ、キミ…と真っ先に思って、次には、なんて我がままな子豚だと思った。

結局、おばあさんとお父さんが優しく慰めて、食卓についた。

放っておけばいいものを、そうやるから、余計に手のつけようがなくなるんじゃ。精神的にも、脂肪的にも…。

最初は娘が食事時に水を飲むのを奇異な目で眺めていたお母さんだったが、

娘と毎日話すうちに、

「食事時に甘いものを飲むと、それだけで、食欲が抑えられてしまい、必要な栄養素がとれないばかりか、糖分過多で肥満になる」とか

「油料理(インド料理)と糖分を併用するのは、肥満の元である」とか

「欧米では肥満する人間はセルフコントロールができない奴=仕事ができない奴と判断される」とか、

さんざん吹き込まれて(嘘ではないよ~)、この頃ちょっと不安になっていたのだ。

 

改めてみれば、小学1年で、すでに50キロの太鼓腹の愛息…。

兄の方はそれほどではないが、やはり太鼓腹…。

将来、子供たちを欧米に留学させたいと願っている母親としては、少々、不安になったらしい。

こんなんでは、留学先で、馬鹿にされるんではないか…就職も危ないかも……それで食事時の飲み物は「水」にせよと厳命したらしい。

でも、子豚ちゃんの涙に押し切られてあえなく挫折?

私もインドにいた時、訪問先のインド人家庭全てーで、

家族が油っぽい辛い料理をばくばく食べながら、コーラや大甘ジュースをがぶ飲みする風景を見て

ぎょっとしたものだった。

だから小学生だというのに、中年太りしているここの家の子供たちを見ても、違和感を感じなかったけれど、でもそれって、大問題なのよね。
そういえば、フランスでは水よりワインの方が安いので、

食事時にワインを飲むのが当たり前なんだけど、子供の時からアル中が多いとか聞いたことがある…。

結論。食事時には水かお茶を飲みましょう。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

2007年3月16日より    その(32)

娘の日記より
休み時間にキャフテリアで観光案内のパンフレットを読んでいたら、

額にビンディー、着ているのはサリーというまさしく地元の女の子が突然、側らに立った。

「日本人か?」と突然話しかけてきたので「そうだ。」と答えると、

いきなり「私、15歳まで日本で育ったの。」と流暢な日本語で話だす?!

名前はワルティカ。2歳年上。しかも大阪育ち。いきなり関西弁でしゃべりだしたよ~?!
「河原町知ってる?鴨川いったか?」
「もちろん、ええとこやな。あ、私、夜中、フリータイムで2000円のカラオケ連れていってもろたんや。あ、カラオケ行かへん?」
「いや、行くって。プリクラも結構撮るで~」
「ほんまに~。」「正月は一緒に日本に帰えろか。そんで遊びにいこ。」
「いこいこ。」…
東京生まれの私がいつの間にか、関西弁に…貴重な日本語の話し相手じゃ。

この際、なに弁でもいいではないか!

気がついたらチャイムが鳴っていた。

よくよく考えたら、今、しゃべっていた1時間は哲学の授業があったような。

でもワルテイカと、インドと日本の二つの住所交換をした。

どう考えても、こっちの方が重要じゃ~。

この時話していて、結構受けたのは、以下です。

「私の友達のインド人の子がな~、付き合っていた男とバイバイしたんや。その理由がな~、まだ知り合って間もないのに手を出してきたからなんやって。」
そこまではわかる。
「で、どのくらい、付き合ってたん?」
「八ヶ月や。日本では考えられん話やろ。」
「えーっ。」
「最低1年くらいは、準備期間が必要やねん。この国は」
な、な、なんて恐ろしい。
「そんなんしてる間に、他の女に目がくらむんちゃうか?」
「それ以前に、日本やったら、男は2,3日で、手を出してきよるしなぁ。」
何だか、身に覚えのありそうな口調のワルティカ。

あれから8年経ったけど、インドの交際事情はどうなっているんでしょうか。

下手に欧米化されていない事を祈る私。

母親としては、8年前のインドのあり方の方が、好ましい気がする。

日本では、惚れたはれたが日常茶飯事でお手軽になったぶん、結局、損をしているのが女であるような気がするのは、私だけかしらん…。